Dieu, le roi, la famille et le travail
L’expérience apprend comment il faut œuvrer dans la vie. Car nous serons jugés sur nos œuvres – les prières et
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Read MoreVirginie Girod est docteur en histoire et spécialiste de l’Antiquité romaine. Elle a publié les biographies d’Agrippine et de Théodora,
Read More人工知能(AI)は「人工計算機」に過ぎない。 昨今、人工知能(AI)というのが、世間で騒がしく話題になっている。なぜだろうか?宗教なき現代、革命的理念に深く毒されている現代社会に置かれた現代人は、「天主」という存在が否定されてしまい、存在していないかのように無視され、なき存在として天主が扱われている。が、人間という存在は本質的に霊的な世界を望み、超越する存在を渇望せずにいられない。その結果、本物の天主を無視する現代なので、人間性に刻まれている「天主を渇望している」という自然な、必要な欲望を「間違った対象」に向けてしまうのではないだろうか。「偶像崇拝」の近代版に過ぎないが、数えきれないほど多く確認できる現象である。19世紀と20世紀に出てきた多くの「〇〇主義」のイデオロギーはその類である。そして、21世紀になって、「人工知能」はそういったものにも当てはまるに違いない。 要するに、俗にいうと、「人工知能」とは、技術上の儚い進歩を膨大化し、絶対化し、理想化し、幻想と夢想を見る「AI偶像崇拝」となる。というのも、人間という存在はどうしてもこの世での人生がどれほど素晴らしいと思っても、同時に何か自分が堕落しているということをも感じざるを得ない。死ぬから、善いことをやろうとしても悪いことを繰り返しているような惨めな存在である人間。大自然においてもこの世は楽園ではなく、災害も多いことも象徴的であろう。したがって、自然に人間はその本性において救済を求めるようになっている。こういった本性を否定することは可能であるとしても、現実を否定したからといって、その現実は変わるわけではなく、そのまま人間は救済を求め続けている。 ところが、問題が残る。間違った対象においてその救済への渇望を注ぐのは誤謬だからだ。可哀そうな近代なのだ。「人工知能崇拝」はその一種の類いに過ぎない。 ここで、一旦、以上の話を保留しておき、後述させていただくこととし、ひとまず詳しく「人工知能」について考察していきたい。 第一、「人工知能」という言葉は不適切であると言わざるを得ない。「人工知能」とは存在しないし、存在するわけがない。それはなぜか。説明してみよう。「知能」あるいは「知性」というのは、意志と共に、この世では人間という存在にしか備わっていない性質である。「意志と知性」が揃った時こそ「人間だ」と言えて、「意志と知性」は人間を定義する要素である。ちなみに、定義するということは、他の存在と区別できる要素を認定するという意味である。つまり、誰か勝手に定義するのではなく、現実をみて、真実を見て、ある客観物をありのままに捉えることこそ、定義するということだ。ついでだが、「天使」といった純粋なる霊的な存在にも「知性と意志」があるが、身体はないので、「この世での」存在にならない。 したがって、「意志と知性」、または、あえて言えば「意志と知性」より発生する「自由」というのは人間を定義するに値する要素だと言えよう。それは勝手に決めつけるようなことではなく、古代ギリシャから、中世の神学を通じて、どこでもいつでも宗教を問わず真面目な賢者ならば、常識的に現実を見る観察者ならば、だれでも結論できる真理なのだ。 しかしながら、結局、「知」ということは具体的になんであるだろうか。読者の間に幼い子供を持つ両親がいたら、よくわかるだろうが、「知る」というのは、目の前にある「客観物」を取り、その本質を認定でき、把握するということを意味する。「抽象化する能力」、「理念・概念を把握する能力」とでもいえよう。例えば、幼い子供は多くの物事に接触していく中、目の前にある対象を全く「分析」できなくても、その本質を最初から掴む能力が備わっている。だから、ある絵本の中に「犬」を見て実物を見たことがないとしても、町を歩いて、全くその絵本に描かれた「犬」と違う種類の「犬」に出会う時、「犬だ」と言い出す子供。つまり、部分的にも「犬」という本質を「知った」からこそ、「犬だ」と子供が言えたし、つまり「犬」という概念ができるようになり、個別の事例に当てはめていく知性。動物ならば、本質を知ることはできない。感情的に本能的にすぐそばにある個別存在をみて反応するに過ぎない。相手は「危険」あるいは「安全」を反応的にわかる動物であり、反応する動物に過ぎない。人間は違う。習わなければ教わらなければ何が有害であるか何が有利であるかわからないままだ。動物と違って、赤ん坊、いや、子供をほったらかしにしたら、自力で生き残れないで死ぬ。人間は本質をとらえるが(つまり理念を持つことができ、物事を知ることはできるが)、本能的に非常に弱くて何もできない。知ろうとしなければ、無防備のままになり、生き残れない可哀そうな人間。 それはともかく、「人工知能」を見ておこう。明らかに、「知能」ではけっしてない。どれほど量的に力のある計算能力・分析能力を持ったとしても「計算機」に過ぎない。確かに、難しい「計算」を一瞬で計算できる「人工知」だが、本質を把握することはできないし、いつまでもできない。単なる人間によるプログラムに過ぎない。どれほど複雑になったとしても、機械は「知る」ことはできない。意志することもできない。善悪を区別することもできない。作られたとおりに機能するに過ぎなくて、オウムのように繰り返すしかない。「習うことのできるプログラム」に至って、その意味において変わりがない。本物の意味で習うことではない。だから、「人工知」は本来、「人工計算機」に過ぎない。桜の花を観想し、感嘆することはいつまでもできない機械だ。天主の存在を感じることはできない機械。祈ることはできない機械。どれほど人間を真似するようにプログラムされているとしても、いつまでも人間より遠い道具に過ぎない。 「AI」は出鱈目だというのだが、ほっといておくわけがないだろう?
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Read MoreHistorienne de la Russie, et membre de l’Académie française depuis 1991, Hélène Carrère d’Encausse a notamment publié La Gloire des
Read More最近、九月末あたりから、何か変な化け物たちがあちこちの店で溢れてくるようになった。当然、オレンジ色じゃなければ落ち着かないようだ。また、醜くもどくろやパンプキンも定番だなあ。あきれるほど、よく訳のわからない変装パーティも巷に頻発する。 本来ならば、日本人ならムカつく「ハロウィーン」であるはずだ。あまりにも商売するためだけの偽りの「輸入された習慣」に過ぎないハロウィーンだからだ。また、このムカつく「ハロウィーン」はアメリカから直接に導入された。日本を酷い目に合わせた「アメリカ様」のバカげた[1]商売的な(伝統とは言えない)「習慣」をむやみに導入させられてたまるものかい! しかも、そういった商売的なイベントのせいで、どんどん快楽主義や物質主義が推進され、可哀そうな子供たちを惑わせるばっかりではなく、自国の伝統を軽視させてしまう。もう、ハロウィーンはくそったれ!日本から排除せよ。それよりも、新嘗祭やお彼岸を大切にすべきだろう。 日本人だけではない。フランス人である私の目から見ると、またカトリックである私の目から見ると、ハロウィーンはどうしてもムカつく。実は、日本ほどでもないが、フランスにも商売的な「ハロウィーン」を盛り上がらせる試みがあったが、おかげさまでそれほど浸透してきていない。なぜかというと、二つの意味でフランス人は受け入れられない英米型の「祭り」だからなのだ。 アメリカ流の毒(俗にいうと「アメリカの文化」と呼ばれるそうだが、そんなものがあるわけがないだろう)を無抵抗に自国に流しっぱなしにしたら困るから、多くの人々は積極的にも消極的にも抵抗し、その偽りの文化を「追い出そう!」とした。 それよりも、ハロウィーンは一番ムカつく理由を説明させていただこう。カトリックの聖なる大祝日を忘れさせ、あえて言えば侮辱するハロウィーンだからだ。というのも、本来ならば「ハロウィーン」という古い英語の言葉は「皆、聖人」という意味であり、つまりカトリック教会では11月1日に祝う大祝日である「諸聖人の祝日」を指すはずだった。簡単にその祝日の旨を説明してみると、天国にいるすべての人々を祝う祭りである。ちなみに、「聖人」という定義は「天国にいる人」という意味で、天国にいる人々を祝う祭りを「諸聖人の祝日」と呼ばれている。それから、11月2日は「死者の祝日」といい、いずれか天国に入っていく「煉獄にいる霊魂」のため、特別にお祈りする日である。死者のためのミサを司祭一人一人が三回捧げることがその日に限って許可されている(通常なら、一人の司祭は一日に一回のミサを捧げる義務があるが、必要がない限り、それ以上捧げない原則がある)。 しかしながら、現代版の商売的な「ハロウィーン」は全くその本来の祝日の精神の逆なのだ。天国にいる聖人、それから、今度天国に入る煉獄の霊魂ではなく、地獄にいる悪魔と劫罰を受けた霊魂を崇めるような悪魔的なイベントだというべきだろう。11月1日、「諸聖人の祝日」は我々が賛美すべき天国にいる聖人(その内、多くの御先祖様がいるだろう)、また、天国に入ることが許されているが清めのため、煉獄で苦しまざるを得ない霊魂のために祈りを捧げる11月2日の「死者の祝日」とは「ハロウィーン」はまるで地獄に落ちた悪者や悪魔を崇拝するような祭りではなければ何だと言えるだろうか。 「楽しくするため」のバカげた、無意味の変装だけならばまだいいが、無駄な浪費をさせ、商売繫盛のための「詐欺」だけならいいのだがそれだけではない。 結論を出そう。目を瞑ってハロウィーンを黙認する理由は一つもない。常識から考えても、日本の伝統から考えても、快楽主義・消費主義・物質主義・資本主義の弊害を抑える必要性という観点から考えても、日本の敵である、また文明の敵である革命的なアメリカの悪影響を追い出す必要性という観点から考えても、そしてカトリック信仰から考えても、本来の祝日である「諸聖人の祝日」から考えても、ハロウィーンを排除せよ! 諸君よ、具体的にハロウィーンに関連するすべてのものを排除し、それにかかわるな!コンビニでさえ売っているいるあのバカげたハロウィーンの菓子を食うな。幼稚園などのイベントに自分の子供を参加させるな。微力に見えるかもしれないが、置かれた立場において、できる範囲で、徹底的に抵抗すべきだろう。 ポール・ド・ラクビビエ [1] 良い伝統なら、まだ話が変わるかもしれないが Premier article en japonais de nos colonnes,
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