ハロウィーン、諸聖人の祝日、死者の祝日、資本主義

日本語欄

ハロウィーンはくそったれ!

最近、九月末あたりから、何か変な化け物たちがあちこちの店で溢れてくるようになった。当然、オレンジ色じゃなければ落ち着かないようだ。また、醜くもどくろやパンプキンも定番だなあ。あきれるほど、よく訳のわからない変装パーティも巷に頻発する。 本来ならば、日本人ならムカつく「ハロウィーン」であるはずだ。あまりにも商売するためだけの偽りの「輸入された習慣」に過ぎないハロウィーンだからだ。また、このムカつく「ハロウィーン」はアメリカから直接に導入された。日本を酷い目に合わせた「アメリカ様」のバカげた[1]商売的な(伝統とは言えない)「習慣」をむやみに導入させられてたまるものかい! しかも、そういった商売的なイベントのせいで、どんどん快楽主義や物質主義が推進され、可哀そうな子供たちを惑わせるばっかりではなく、自国の伝統を軽視させてしまう。もう、ハロウィーンはくそったれ!日本から排除せよ。それよりも、新嘗祭やお彼岸を大切にすべきだろう。 日本人だけではない。フランス人である私の目から見ると、またカトリックである私の目から見ると、ハロウィーンはどうしてもムカつく。実は、日本ほどでもないが、フランスにも商売的な「ハロウィーン」を盛り上がらせる試みがあったが、おかげさまでそれほど浸透してきていない。なぜかというと、二つの意味でフランス人は受け入れられない英米型の「祭り」だからなのだ。 アメリカ流の毒(俗にいうと「アメリカの文化」と呼ばれるそうだが、そんなものがあるわけがないだろう)を無抵抗に自国に流しっぱなしにしたら困るから、多くの人々は積極的にも消極的にも抵抗し、その偽りの文化を「追い出そう!」とした。 それよりも、ハロウィーンは一番ムカつく理由を説明させていただこう。カトリックの聖なる大祝日を忘れさせ、あえて言えば侮辱するハロウィーンだからだ。というのも、本来ならば「ハロウィーン」という古い英語の言葉は「皆、聖人」という意味であり、つまりカトリック教会では11月1日に祝う大祝日である「諸聖人の祝日」を指すはずだった。簡単にその祝日の旨を説明してみると、天国にいるすべての人々を祝う祭りである。ちなみに、「聖人」という定義は「天国にいる人」という意味で、天国にいる人々を祝う祭りを「諸聖人の祝日」と呼ばれている。それから、11月2日は「死者の祝日」といい、いずれか天国に入っていく「煉獄にいる霊魂」のため、特別にお祈りする日である。死者のためのミサを司祭一人一人が三回捧げることがその日に限って許可されている(通常なら、一人の司祭は一日に一回のミサを捧げる義務があるが、必要がない限り、それ以上捧げない原則がある)。 しかしながら、現代版の商売的な「ハロウィーン」は全くその本来の祝日の精神の逆なのだ。天国にいる聖人、それから、今度天国に入る煉獄の霊魂ではなく、地獄にいる悪魔と劫罰を受けた霊魂を崇めるような悪魔的なイベントだというべきだろう。11月1日、「諸聖人の祝日」は我々が賛美すべき天国にいる聖人(その内、多くの御先祖様がいるだろう)、また、天国に入ることが許されているが清めのため、煉獄で苦しまざるを得ない霊魂のために祈りを捧げる11月2日の「死者の祝日」とは「ハロウィーン」はまるで地獄に落ちた悪者や悪魔を崇拝するような祭りではなければ何だと言えるだろうか。 「楽しくするため」のバカげた、無意味の変装だけならばまだいいが、無駄な浪費をさせ、商売繫盛のための「詐欺」だけならいいのだがそれだけではない。 結論を出そう。目を瞑ってハロウィーンを黙認する理由は一つもない。常識から考えても、日本の伝統から考えても、快楽主義・消費主義・物質主義・資本主義の弊害を抑える必要性という観点から考えても、日本の敵である、また文明の敵である革命的なアメリカの悪影響を追い出す必要性という観点から考えても、そしてカトリック信仰から考えても、本来の祝日である「諸聖人の祝日」から考えても、ハロウィーンを排除せよ! 諸君よ、具体的にハロウィーンに関連するすべてのものを排除し、それにかかわるな!コンビニでさえ売っているいるあのバカげたハロウィーンの菓子を食うな。幼稚園などのイベントに自分の子供を参加させるな。微力に見えるかもしれないが、置かれた立場において、できる範囲で、徹底的に抵抗すべきだろう。 ポール・ド・ラクビビエ [1] 良い伝統なら、まだ話が変わるかもしれないが Premier article en japonais de nos colonnes,

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